顧問あいさつ|学生芸能、時分の花、新型コロナ
皆さま、ご機嫌麗しゅう存じます。この度は、2020年度「双葉踊り」にアクセスいただき、誠にありがとうございます。コロナ禍の「双葉踊り」は、「デジタル双葉踊り」となり、演目動画を収録し、動画配信サイトで公開することになりました。
前任の狩俣恵一先生から顧問を引き継いだのは、2012年のことでした。「学生芸能」の創造を目標に活動してまいりました。若者が心をひとつにして、芸能に学び、芸能を通じてかけがえのない仲間と出会うことは、学生時代だからこそ実現できる一瞬の花といえましょう。その一瞬の花を目指して学生は、日々稽古を重ね、技の習得をしていきます。しかし、「学生芸能」において重視していることは、芸能を通して学ぶ、礼儀であったり、言葉遣いであったり、或いは一つの演目の背景となる人々の暮らしであったりします。もちろん、組織の中での振る舞いや細々とした事務も学びます。私は、顧問として、このような「芸能学び」の中に、自らの人生を切り拓く大切なものを探してほしいと思っております。
世阿弥は、十二、三歳頃の子どもと大人の境目の役者を「時分の花」と言いました。「時分の花」は、その若さの中に、輝きがあり、何をしても魅力的だと言います。しかし、「時分の花」は、「まことの花」ではないとも言いました。若々しさはいずれ枯れていくのです。その時期に有頂天になってしまうことを戒めたことばです。若いエネルギーを発散しながらも、基本の技を大事に守り、動作の正確さ、明瞭な発声、発音を繰り返し稽古することの大切さを強調しました。私も、人としてのあり方、生き方を「芸能学び」の中に見出したいと考えています。
「まことの花」は、枯れていても、光り輝き、魅力を発するものだといいます。枯れても、光る花とは何なのでしょう。それは、「時分の花」を心から味わい尽くすことによって、見出されるものだといいます。「時分の花」を謳歌しながらも、慢心することなく、稽古を積み上げることこそ、「まことの花」への道なのです。
学生は未熟で、何度も何度も躓きます。それは、人間関係であったり、稽古をめぐるトラブルであったり、時にはお互いを厳しく責めあう場面も……、本当に公演の幕が上がるのだろうかと不安に思うことも度々ありました。それでも、若いことはそれだけで素晴らしいものであり、若いエネルギーに満ち溢れた芸能は人々を感動させます。躓いて、傷ついて、涙を流しながら、「まことの花」を見つめる姿が、「芸能学び」であり、「学生芸能」という「時分の花」なのです。
今年度は、新型コロナウイルスに翻弄された一年でした。私は、学生とミーティングをするたび、学生に詫びたい気持ちでおりました。活動自粛の中、モットーとすべき「学生芸能」は、宙に浮き、世間の事情に合わせた説得力のない説明しかできませんでした。どうにか活動再開を模索しようとする学生を制止することしかできず、不甲斐なさを抱えながら、やり過ごしている感覚に落ち込むこともありました。
やっと活動再開の目途が付き始めた頃は、夏が終わろうとしていました。琉芸文のレパートリー曲の音源をレコーディングしようと、大浜、伊藤両コーチから提案があった時も、内心恐る恐るの許可でした。大学当局には、学内にコロナを持ち込ませないという固い方針がありました。そのため世間からいろいろな勘違いを招いていました。学生がかわいそうだ、授業料を返せ等、連日、苦情が寄せられ、電話口の事務職員の心は擦り切れていってしまいました。あるいは教員同士が激しく責めあう会議もありました。収束の目途がないことは、私の頭をどんどん攪乱させていたといってもいいでしょう。
そんな中、レコーディング作業に顔を出すと、いつものメンバーが、琉芸文ユニフォームを着て、一曲一曲を丁寧に作り上げていた姿があり、涙が出てきました。「学生芸能」は、やはり素晴らしい。彼らの笑顔がもっと見たい。そのような気持ちになりました。学内の三号館前でゲリラ公演が企画され、密を避けながら上演できた時の喜びは忘れられません。学生部長はじめ学生課の皆さんや、関係者の協力によって実現したといってもいいでしょう。たった20分の限られた舞台が、心底輝いて見えました。この舞台にかける、学生の意気込みがひしひしと伝わり、その場に居合わせた上江洲薫学生部長も、柔らかな笑みを浮かべて、彼らを優しく見守っていたことが忘れられません。
しかし、感染状況はどんどん深刻になり、ついに、二度目の緊急事態宣言が出されました。もうこのままでは、「双葉踊り」は開催できない。判断しなくてはならない。文字通り、「苦渋の選択」でした。無観客の「双葉踊り」だ、動画の収録に切り替える、公演は諦めてくれ、そのように伝えた時の4年次の顔は一生忘れられないと思います。私は、泣き崩れるだろうと思っていました。野球の試合で敗退した高校球児が地面に泣き崩れる姿を予想していました。そんな姿は全くありませんでした。顔はうつむき加減でありましたが、すぐに気持ちを切りかえて、動く姿がありました。ここにも、美しい「時分の花」がありました。
こんなことを聞きました。いつもなら、全体稽古や部分稽古に集まりが悪く、時間調整や稽古日程の調整に課題があり、コーチから指導される場面(時には顧問の私の爆弾発言)があるのに、だれも稽古を休まないというのです。時間通り始まり、時間通り終わることも徹底されているというのです。そういえば、私との打ち合わせのために、研究室前で待っている某学生は、窓ガラスを鏡がわりにして稽古をしていました。ついに、彼らは、歩く「双葉踊り」になっていました。はち切れんばかりの「双葉踊り」への思いが、このような行動になっているのでしょう。一途な心に、胸打たれた私は、学生時代の自分を見ているような気がしました。
繰り返しになりますが、学生は「学生芸能」において、技の習得だけではなく、様々な学びを見出していきます。芸能を通して、次々と学びの世界を拡張し、点から点に放射していく「芸能学び」の放射線ができるのです。これこそ「学生芸能」の核心です。
「時分の花」の時期に積み上げた稽古は、彼らの人間的な成長の土台になると心から信じています。「デジタル双葉踊り」でも、観客を魅了し、感動を届けられるように、一所懸命、心を尽くして舞台を作り上げることでしょう。そのような彼らの心に触れていただき、コロナ禍の中あっても、爽やかな風を感じていただければと存じます。忌憚なき御批正を賜れば幸甚に存じます。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
沖縄県緊急事態宣言解除の日に記す。
沖縄国際大学琉球芸能文学研究会
顧問 田場 裕規
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